はじめて見た

 火曜日に「2月3月4月の累計残業時間が300時間を超えた」という通知を貰った。この期間、番組のリニューアル作業でほとんど休日を返上していたためだ。たぶん労使協定によるものだが、残業時間がある一定量を超える特別休暇が与えられ、もっと増えると人間ドック入りが命じられる。平日の生放送を担当していると特別休暇を取るヒマなどまずないが、今回は2日間、権利を行使することにした。
 父親の胃がんの手術があるのだ。
 羽田から朝イチの便で地元へ。そのまま病院へ直行、手術前の父親と会うことができた。スポーツ好きの父は孫娘が運動会でリレーの選手に選ばれたことをたいへん喜んでいたので、残念ながらビリに終わった顛末を教える。ほとんど日常と変わらぬ他愛ない話。親父は鎮静剤の投薬でだんだん眠くなる。しばらくして家族は部屋の外に出され、看護士の女性が鼻にチューブを通すなど、手術の下準備をする。
 11時から予定通り手術開始。いったん実家に荷物を置き、再び病院へ。持参したフルフォードの『ヤクザ・リセッション』を読むが、睡眠不足もあってやたらと眠く、ほとんど進まない。待つこと4時間半、手術終了の知らせを受けて、外科の担当医から手術内容の説明を受ける。
 担当の女医さんは縦長のボウルのような銀色の容器に、切除した親父の胃袋と脾臓を入れて持ってきた。図か写真で説明されるのかと思っていたので一瞬たじろぐ。赤黒く、ひだのある胃袋の周辺に、黄色い脂肪組織がついていて、その下に黒っぽく顔を覗かせているのは脾臓だ。胃は切り開かれていて、がんの部位には金属のクリップが止めてある。
 人間の臓器をナマではじめて見た。
 銀色の金属容器に臓物。色の組み合わせは焼肉屋のそれと同じである。切除した部分を見せるなら予告してくれればいいのに、と思ったが、あとで経験者に聞くと今やこれが当たり前らしい。
 なんとなく、がんはポリープ状にでっぱっているイメージがあったのだが、実際には周辺の組織を巻き込み、裏側から引っ張ったようにひきつれている。胃を一部残せるかどうか、ぎりぎりの場所だったようだが結局全摘となった。医者に「何かご質問はありますか」と聞かれたが、切除した臓器という圧倒的現実の前にほとんど言葉が出ず、礼を言って退出する。今思うと、せっかくだからピンセットでがんの部分を触らせてもらえばよかったが。
 ICUで、手術直後の父に面会する。酸素マスクをつけ、鼻と腹からチューブが出ている。麻酔の影響で朦朧としていて、酔って寝ている時と同じような反応だ。話しかけるのを躊躇していると、看護士さんが「喋ると肺が広がりますから、どんどん話させてください」と言う。そうは言ってもひどく眠そうだし、リアクションも薄いのであまり話しかけられず退出した。
 3時間ほど待って、帰るまぎわにもう一度会いに行く。今度は完全に麻酔から覚めていて、今まで見たことがないような切羽詰った目でじっとこちらを見た。ちょうど手術跡が痛くなってきたところだったようで、目の端に涙が見える。「説明は聞いたか?」「胃袋を親父さんの代わりに見ておいたよ」「焼いて食うとどんなだろうな」。つまらないが冗談を言ってみせる余裕はあったようだ。
 部品の集合体である肉体の上に、取替え不能な精神が宿る。明日の午前中に、一般病棟に戻るスケジュールだ。こんなに早く、大丈夫なのか?と思うが人間の回復力がいかにすごいかという証なのかもしれない。